虹の大橋の引き留め

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俺が配送の仕事を始めたのは、3年前の春だった。

相模原の営業所に配属されて、最初の頃は土地勘もなくて苦労したもんだ。特に山の方の配達は道が複雑で、カーナビがあっても迷うことがしょっちゅうだった。

あの日も、宮ヶ瀬の奥の方への配達が最後に残っていた。2月の午後5時半。冬の夕暮れは早くて、もう辺りは暗くなり始めていた。

荷物を届け終えて、帰りは県道64号を通って虹の大橋を渡るルートを選んだ。宮ヶ瀬湖に架かる330メートルの橋で、観光スポットとしても有名だ。日中は眺めがいいらしいが、この時間はもう湖面が黒々と口を開けているようで、正直気味が悪かった。

橋の入り口にさしかかった時、歩道に人影が見えた。

黒いダウンジャケットを着た男性が、フェンスに両手をかけて湖を見下ろしている。30代半ばくらいだろうか。その姿勢が妙に長い。ずっと同じ体勢で、微動だにしない。

一瞬、声をかけるべきか迷った。だが、余計なことに首を突っ込んで面倒なことになるのも嫌だった。俺は何も見なかったことにして、橋を渡り始めた。

ところが50メートルほど進んだところで、バックミラーに映る景色に違和感を覚えた。さっきの男性が動いている。いや、歩いている。俺の車を追いかけるように、橋の中央に向かって歩き出していた。

歩くスピードが異常に速い。

俺は時速40キロで走っている。なのに、みるみるうちに距離が縮まってくる。100メートル、80メートル、60メートル…

ありえない。人間があんなスピードで歩けるわけがない。

心臓が早鐘を打ち始めた。アクセルを踏み込んだ。50キロ、60キロ。速度を上げた。

だが、バックミラーの中の男は、まだ追いかけてくる。相変わらず歩いているだけなのに、車との距離が縮まり続けている。40メートル、30メートル、20メートル…

その時、助手席側の窓ガラスに、女の顔が映った。

ガラスの内側に。

俺は叫びそうになったが、声が出なかった。窓ガラスに張り付くように、若い女の顔が浮かんでいた。目を見開いて、口を大きく開けて、何かを叫んでいる。だが声は聞こえない。ただ必死に何かを訴えている。

目を離せなかった。見てはいけないと思いながら、その顔から視線を外せなかった。

女の口が動いた。読唇できるほどはっきりと。

「にげて」

ハッと我に返って前を見た瞬間、目の前に黒いダウンジャケットの男が立っていた。

急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴を上げた。

車は男の直前で止まった。衝突していない。ぶつかっていない。だが、男は俺の車のボンネットに両手をついて、フロントガラス越しにこちらを見ていた。

その目が、完全に焦点が合っていなかった。瞳孔が開ききって、真っ黒だった。口元は微かに笑っているようにも見えたが、それは表情というより、筋肉の弛緩だった。

男がゆっくりとボンネットから手を離し、運転席側に回り込んできた。

ドアロックを確認した。かかっている。だが、男は窓ガラスをコンコンと叩いた。

「開けてくれませんか」

丁寧な口調だった。妙に落ち着いた声だった。

「一緒に行きましょう。一人じゃ寂しいんです」

背筋が凍った。この男は、俺を誘っている。どこへ?決まっている。あの暗い湖の底へだ。

俺は必死でギアをバックに入れた。アクセルを踏んだ。

車が動かない。

エンジンは回っている。ギアも入っている。なのに車が一ミリも動かない。まるで湖底から何百本もの手が車体を掴んで、引きずり込もうとしているように。

男がドアノブに手をかけた。ロックされているはずなのに、ガチャガチャと音を立てている。

「待って!」

助手席側から女の声がした。さっきの顔の女だ。今度ははっきりと声が聞こえた。

「あなたは違う!連れて行かないで!」

男の動きが止まった。顔を助手席側に向けた。

「邪魔をするな」

男の声が変わった。低く、どす黒い声になった。

「この人は関係ない!お願い!」

女の声が泣いているように聞こえた。

その瞬間、携帯電話が鳴った。営業所の先輩からだった。

震える手で電話に出た。

「おい!今どこにいる!?」

「虹の…大橋…」

「何やってんだ!今すぐそこから離れろ!その橋、今日の午後に飛び込みがあったんだ!30代の男だ!警察が捜索してるけど、まだ見つかってない!お前、何か見たのか!?」

「目の前に…います…」

「クラクション鳴らせ!今すぐだ!音を出せ!」

俺は言われるままにクラクションを鳴らし続けた。

ビィィィィィィィ―――

耳を劈くような音が、静まり返った橋に響き渡った。

男の姿が揺らいだ。まるで水面に映る像のように、グニャリと歪んだ。

そして、消えた。

同時に、車が急に動き出した。まるで何かが急に手を離したように。

俺はそのままバックで50メートルほど下がって、ハンドルを切って方向転換し、来た道を全速力で引き返した。

バックミラーを見ると、橋の中央に、さっきの男が立っていた。

こちらを見ている。両腕をだらりと下げて、ただじっと見ている。

その隣に、女性の姿も見えた。黒いダウンの男の腕を掴んで、引き留めるように。

二人の姿は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。


後日、営業所で詳しい話を聞いた。

その日の午後3時頃、30代の男性が虹の大橋から飛び込んだという。目撃者もいた。警察と消防が出動したが、遺体はなかなか見つからなかった。

そして4日後、橋から3キロ下流で遺体が発見された。黒いダウンジャケットを着た男性だった。

それともう一つ。その男性の妻も、半年前に同じ虹の大橋から身を投げていた。

夫婦で多額の借金を抱えていて、妻が先に逝き、半年間一人で耐えた夫も、ついに後を追った。

警察の調べで、男性の携帯に残されていたメモが見つかった。

「ごめん。やっぱり一人じゃ無理だった。そっちに行くから待ってて。でも、寂しいから誰か連れて行きたい」

俺が車の中で聞いた女の声。「待って」「あなたは違う」「連れて行かないで」。

あれは妻の声だったんだ。半年間、一人であの橋で夫を待ち続けて、そして夫が来た時には、夫が他の人を巻き込もうとするのを必死で止めようとしていた。

俺が助かったのは、先輩からの電話のおかげだ。だが、本当に俺を守ってくれたのは、あの女性だった。

クラクションを鳴らした後、男の姿が消えて、女性が男の腕を掴んでいるのが見えた。あれは、妻が夫を連れ戻そうとしていたんだと思う。

ただ一つ、今でも気になることがある。

あの男の最後の言葉だ。

「一緒に行きましょう。一人じゃ寂しいんです」

あれは、俺に言っていたのか。それとも、妻に言っていたのか。

半年間一人で待ち続けた妻も、半年間一人で耐え続けた夫も、どちらも限界だったんだと思う。

それでも妻は、最後の最後まで、夫が他人を巻き込むのを止めようとした。

あの橋には、今も二人がいるような気がする。

妻は夫を引き留め続け、夫は誰かを探し続けている。

あれ以来、俺は虹の大橋を通らない。遠回りになっても、絶対に通らない。

だって、次に通った時、あの女性が俺を守ってくれる保証はないから。

次は、彼女も疲れ果てて、手を離してしまうかもしれないから。

そして俺は、あの黒いダウンの男に腕を掴まれて、一緒にあの暗い湖に引きずり込まれるかもしれないから。


一つだけ、最後に言っておきたいことがある。

先月、ニュースで虹の大橋付近での事故が報道されていた。深夜2時頃、20代の男性が運転する車が、橋の中央で急停止し、そのまま運転手が行方不明になったという。

車はエンジンがかかったまま、運転席のドアが開いた状態で発見された。

その車内から、運転手の携帯電話が見つかった。最後に開いていたアプリは、マップアプリだった。

そして、その画面には、虹の大橋の真ん中に、赤いピンが二つ、並んで立っていたという。

警察は現在も捜索を続けているが、運転手は見つかっていない。

もし、あなたが虹の大橋を通ることがあったら、気をつけてほしい。

橋の真ん中に誰かが立っていても、絶対に止まらないでほしい。

窓ガラスに何かが映っても、見ないでほしい。

そして、もし車が突然動かなくなったら、クラクションを鳴らし続けてほしい。

それしか、方法はないから。

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